★緊急告知: ギャラリー・カフェ、します。★

この連載コラムのライターたちも参加する、ギャラリー・カフェ『時のカケラ』展の開催が近づいてきました。
10月19日〜29日、大阪中崎町で開催です。
詳細は、 OJMM.NETの告知ページ にて告知しています。



連載 第7回 2006年10月号

コトバノブンキテン! 〜各都市で使われている言葉〜

「10月のコラム、テーマを何にするか考えてるねんけど、どう思う?」
「まあ、何のテーマでも、ライターたちがおもろく書いてくれるんちゃう?」
「それ言ったら、おしまいやん。まあ、サブタイトルに”ハイブリッド・コラム”って書いてるから、日本語以外の言葉もたくさん混じるテーマが、ええねんけどなあ…」

毎回恒例の作戦会議(?)を経て決まった今回のテーマは、コラム表現の「手段」でもある
、「言葉」。手中のカメラそのものの写真を撮ろうとするような、冷たい矛盾がそこにあります。
また、例えば、サミュエル・ハンティントンは「文化を特定する最大の要素は、言語と宗教」と言っています。言語は、その地域の過去と現在に大きく関わっており、現代都市における空間的な分岐点を探すための手がかりにもなります。
それでは、今回の言葉コラムも、気軽にお楽しみください!

一級建築士事務所 スタジオOJMM
代表 牧尾晴喜



Indianisation:インド化現象


10ルピー紙幣
下にヒンディー語と英語、左に15の地方語で「10ルピー」と書いてある。

豊山亜希
インド
ムンバイー
(旧名ボンベイ)
ムンバイー暮らし最大の問題、それは虫でも下痢でもなく、今回のテーマ「言葉」である。インドはヨーロッパ全体に匹敵する国土を誇るだけあり、国語のヒンディー語、公用語の英語に加え、各州の第一言語である地方語が15にものぼる。
インド一の大都市ムンバイーには全国から人々が集まってくるので、ヒンディー語を話しておけば無難なのだが、イギリスの植民支配という歴史的経緯から、英語の普及率も高く、リキシャードライバーやコピー屋のおじさんも、英語で話しかけてくれたりする。ところがこの英語、“r”を「ル」と強く音に出し、“th”を「ト」と読むなど、独特のイントネーションをもつインド風に変質している。その上、外国人も彼らと同じように、例えば“water”を「ワータル」と発音しなければ、英語として理解してもらえない。
1年後に帰国する頃には、ムンバイーの地方語であるマラーティー語よりも、インド風英語の発音が上達していそうな予感を胸に、「インタルネット・ミレガ?(ネットつながる?)」と、この原稿を送信するため、電話屋に聞く私である。



nuchterheid (ヌヒターヘイト):醒めていること

Bureau Monumenten & Archeologie, Amsterdam

松野早恵
オランダ
ユトレヒト
風を水に放す
「仕事の時間を守り、現場スタッフの意見を聞いて、苦労せずに英語が話せるから。醒めたオランダ人でよかったと思う。」人気モデル、イフケ・ストゥルム が成功の理由を尋ねられた時の答えです。
彼女の発言にある「醒めた」をオランダ語で書くとnuchterヌヒター。この国の美徳を知るキー・ワードです。通常、nuchterには「無関心」というニュアンスがなく、「状況を冷静に判断し、的確な行動を取る。目標達成のため、協力を惜しまない。」という肯定的な意味で使われます。華やかな世界に身を置きながら、計画性やコミュニケーション能力など、どの業界にも通じる「仕事の常識」が大切だと語るイフケ。こうした現実的な姿勢に共感が集まります。
もちろん、多くのオランダ人が「醒めていること」を尊ぶからといって、国民全てがその特徴に当てはまる訳ではありません。でも、このnuchterheidにはステレオタイプを越えた真実を感じます。醒めてはいるけれど、決して冷淡ではない。オランダ人の考え方について、私自身、そんな感想をよく抱くからです。厚い雲が晴れた後、空に満ちる透明な光(写真)。理性を重んじる社会の気風は、人々の心を隈なく照らす、この光によって形作られているのかもしれません。



豪英語



寺西悦子
オーストラリア
ブリスベン
♪Air Mail from Brisbane♪
つい先日、アメリカ人の友人が、オーストラリア人に何か質問されて何を言っているのか聞き取れず、さらには生まれて初めて、”Can you speak English?”と言われ、「オージーイングリッシュ(豪英語)は同じ英語でも違う!」と語っていた。私も豪生活が長くなるにつれて、同じ英語圏でも、イギリス、アメリカとの違いが少しずつ判別できるようになってきた。イントネーションとは別に、豪英語ならではの表現も多く、G’day mateやNo worriesに始まり、AfternoonをArvo、BiscuitをBikkieと言ったり、奥は深い。
そんな興味深い豪英語。最近、英語そのものがニュースで話題になっている。それは、移民への英語試験の強制。多民族国家、移民の受入れに寛容なオーストラリアでは、移民政策の話題も多い。異文化を尊重しつつ、その一方で英語を強制し、オーストラリアの価値観を推進する動きがある。祖国での内戦、迫害を逃れてやってきた難民へ、英語を強制することは、自由で個人の権利を尊重するオーストラリアとの矛盾を感じたりしている。将来、オーストラリアがどのような道を歩んでいくのか、豪英語はどうなっていくのだろうか。

Cheers,
(メールのやり取りで、最後の締めくくりに非常に多く使われている表現、Regards,の意味)



フランクフルト弁

街のあちこちにある
在独外国人用国際電話ショップ

ユゴさや香
ドイツ
フランクフルト
「イッヒ リーベ ディッヒ!」 愛の言葉にしては、えらく鋭角的で硬い響き。これが、私のドイツ語の第一印象だった。ところが、フランクフルトの人は冒頭の文章を次のように発音する。「イッシ リーベ ディッシ」 ヒをシと発音するだけで印象ががらりと変わる。よく言えば柔らかく、悪く言えば野暮ったくなるのだ。この辺りが、フランクフルト訛りは田舎もんと言われるゆえんだろう。
さらに人口の半分は外国人とも言われるフランクフルトでは、ここはどこの国だろうと思うほど、他国語が氾濫している。ドイツに来たばかりの頃、私が拙いドイツ語で質問したりすると、優しく英語で答えてくれる人が何と多かった事か。時にはフランス語で対応してくれたりもする。近所の郵便局で日本宛のエアメールを頼んだら、帰り際に「サヨナラ」と日本語で言われた事も。
こんな多言語社会に危機感を感じてか、最近成立した新移民法では、ドイツ語学習コースの参加が義務化されるようになった。現地語の学習。それは言語だけでなく、文化や歴史、物の考え方や表現の仕方といった、その国自体を学ぶ事につながる。かくいう私も、今ではすっかりフランクフルト訛りで、イッシイッシと連発しているのだった。



素晴らしき言語能力

澤恵子
ガーナ
アクラ
「Wo ho rse den?」 (オ ホテ セイン?元気?)というチュイ語での挨拶よりも、「Oboroni!」(オブロニ!白人!)と呼ばれることが多かった私。ガーナの公用語は英語だが、タクシーを使う場合の値段交渉やマーケットで買い物をする時は、民族語を使うとお得になる。「エイ!中国人がチュイ語を話したぞ!」(「エイ!」は驚きを表す感嘆詞)と大喜びして値下げに応じてくれたり、おまけをくれたりする。
ガーナには60種類以上の言語があり、チュイ語は私の住むアクラで比較的多くの人が話す言語。器用なもので、ガーナ人はこの民族語を2〜6つ話せたりする。これは民族同士が理解し合う為に、どうしても必要なこと。日本語だけで育った私は、正直、彼らの感覚が羨ましい。フランス語が公用語圏であるトーゴとコートジボワール、ブルキナファソに挟まれているガーナだが、国境近辺の人達は、国籍が違っても共通の民族語で理解し合えるので、問題は何もない。国境は過去のヨーロッパ人が地図を見ながら勝手に引いたものなのだと、彼らの陽気におしゃべりする姿を見ていて改めて思った。



卑しくも愛しきローマの叫び


「ローマの口」はこんな感じ

野村雅夫
イタリア
ローマ
大阪ドーナッツクラブ
イタリアは千の顔を持つ国であると言われることがある。近代国家としてのこの国は、大小さまざまな都市国家の集合体として形成された。つまりは、地域の数だけ特色があるということで、そのモザイク的な性格は言葉にも当てはまる。そして千の顔には、千の口がある。それでは、ローマの口はどんな塩梅かというのが、今回のお話。この街は政治的には首都だけれど、言語的にはまったくの僻地だ。方言や隠語が飛び交うこの街は、イタリア語学習者の耳にとっては重度の危険地帯である。そんなローマの言葉を一語で表現すれなら、「野卑」だろう。イタリア語は優れて音楽的なイントネーションを持った言語であるが、ローマ方言は極めて独創的な音楽を奏でている。のびのびと自由奔放に調子っぱずれている。そこがチャームポイントでもあるのだが、厄介なのはその音量。ローマっ子は総じて声が大きいのだ。僕の感覚からすれば、彼らはいつも叫んでいる。おかげで僕の鼓膜もしだいに鍛えられ、ずいぶんとたくましく分厚くなった。百聞は一聴にしかず。皆さんもローマの下町を舞台にした映画をご覧に、いや、お聴きになってみてください。ただし、ヴォリュームはくれぐれも控えめに。



Language Acquisition is the Ultimate Challenge


Simon Nettle
日本
大阪
My Amazing Life
As my time in Japan draws to a close, it is with increasing desperation that I try to jam in as much 日本語 into my unwilling brain as I can before setting sail back home. Far from being one to return empty-handed from the land of jewels, I have, although perhaps half-heartedly at times, done my best to acquire this language - which is more than what I can say about some of my associates. I'm baffled by the chronic apathy and complacence of people, who would choose to live for years on end in a kind of linguistic limbo, unable to participate in the simplest of conversations, rather than spend a few regular moments in front of a textbook.
The constant tension one feels not being a native speaker of 日本語 and the fear that the slightest lapse in concentration will derail one's already wobbly train of thought can be stressful at times, especially in a country for whom language acquisition is practically an official national pastime.
I must say, I find it a little unfair when touring the bookshelves of ジュンク堂 to find probably five times the amount of 英語 instruction books for 日本語 speakers as there are 日本語 for 英語 speakers. I wouldn't find it that upsetting except that the quality of those 日本語 textbooks is really quite low, and most of them are essentially novelties, although I do own a number of them.
I'm praying I can maintain (develop?) the discipline to continue my own studies once I return to Australia, and one day actually say that I am fluent, but that day is a long way off, I fear.



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牧尾晴喜   harukimakio*aol.com
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