★緊急告知: ギャラリー・カフェ、します。★
この連載コラムのライターたちも参加する、ギャラリー・カフェ『時のカケラ』展の開催が決まりました。
10月後半、大阪で開催です。
詳細は、決定次第、 OJMM.NET にて、また、本連載の来月号でも告知します。
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連載 第6回 2006年9月号
世界で見つけた、時のカケラ! 〜各都市で歴史を感じる瞬間〜
どこかの場所の「歴史」を感じるのは、一体どういった瞬間でしょうか?
ギルドの世界の名残、戦争や侵略の爪あと、古代からの遺跡…。今回のコラムで描かれるこれらのテーマは、様々なカタチで、現在の都市生活にも大きな影響を及ぼしています。日本に住む私たちも含め、現地に住んでいると却って見えにくくなる「歴史」を、ライターたちが外国人としての視点から描きます。
今年度の前半戦最後の歴史コラム。重いテーマも扱っていますが、気軽にお楽しみください!
一級建築士事務所 スタジオOJMM
代表 牧尾晴喜
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親方と弟子
近所のパン屋さん |
ユゴさや香
ドイツ
フランクフルト |
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フランクフルトに住んでいると、ドイツが歴史ある国だということを忘れてしまいがちである。戦禍で破壊しつくされ、新しく建て直された街並みは、メルヘンの国、中世の城、ロマンチック街道といったドイツのイメージとは程遠い。
ところが、そんな外観に騙される事なかれ。近所のパン屋は進出チェーン店のような店構えにもかかわらず、看板には誇らしげにSeit 1810 の文字が。なんと創業1810年。他にも地元で人気のカフェは、親子3代続くコーヒー専門店。はたまた、おじいさんの代から続く靴屋さんや時計屋さんなどが街の至る所に点在している。
こうした老舗を支えているのが中世から続くマイスター制度。専門的技術や知識を身につけるため、Lehrling=徒弟として職業訓練学校に行きつつ実習生として働き、試験に合格するとGeselle=職人として実務経験を積み、最終試験を突破した者だけがMeister=親方の称号を手に入れる。パン屋も肉屋もマイスターの資格なくしては営業できない。
今日も美味しいパンやハムを味わいつつ、脈々と受け継がれる伝統を噛み締める。熟練マイスターの作り出す作品は、それ自体が歴史を物語っているのだ。
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「摩天楼」を望んで
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アムステルダム市南部にあるY字の大通り 。この道路の分岐点に、集合住宅「Wolkenkrabber (摩天楼)」 (1932年)が立っています。第二次世界大戦後の高層化を経た今、高さ48mのマンションを「摩天楼」と呼ぶのは不自然かもしれません。でも、アムステルダムでWolkenkrabberと言えば、皆、この住宅を思い浮かべます。
築75年の建物が、なぜ市民の記憶に焼きついているのか。それには幾つか理由があります。「摩天楼」が、世界恐慌の打撃を受けつつ完成した大プロジェクトだったこと、1940年、Y字路を通って、ドイツ軍がアムステルダムに進駐したこと。そして、もう一つ。『アンネの日記』を書いたアンネ・フランクが、1942年まで「摩天楼」の裏にあるメルウェーデ広場の集合住宅で暮らしていたこと。
現在、広場にはアンネの記念碑が建てられています(写真)。隠れ家へ向かう様子を表しているのでしょうか、少女はかばんを持ち、我が家を振り返るような眼差しをしています。
家に帰る。平和な社会では何気ない日常の行いですが、戦争に巻き込まれた市民にとって、家族が無事に帰宅できるかどうかは、切実な問題です。広場に立って、アンネの像、「摩天楼」を望みながら、世界を覆う紛争の暗雲に思いを致さずにはおれません。
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「時すべり」の街、ローマ
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歴史の話でイタリアほど豊富なトピックを提供してくれる国も少ないのではなかろうか。しかも、僕が居を定めているのはローマである。古代帝国時代からファシズム期まで、あらゆる時代の遺物がひしめいている。その様子は、一大ヒストリカル・パレードだ。旅行者にとっては何度訪れても味わい尽せないテーマパークかもしれないが、ぼんやりとロマンに浸っていると、ややもすれば歴史の重みに押し潰されそうになる。そして、歴史の重みは、えてして家賃の重みに転化する。前者はあくまで比喩的なものだが、後者は極めて現実的な問題である。そんなわけで人々は郊外を目指し、ローマは緩慢ではあるが着実にそのサイズを肥大化させている。かく言う僕も、歴史と家賃 の重みに耐えかねて逃げ出した口だ。一昔前までは羊しかいなかったような場所にできた、のっぺりとした区域に暮らしている。歴史の影は薄い。それはそれで何だか寂しくて、地下鉄に乗って用もないのに中心部へと出かけたくなる。掘れば出る遺跡と格闘しながらできあがったローマの地下鉄は、誰でも乗れるタイムマシンだ。揺れはひどいが、いくつもの時代が共存し「時すべり」を起こしている街の下を駆け抜けていく。
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Australian Dayに思ったこと
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ブリスベンに来てすぐの頃Australian Dayがあった。今年でオーストラリア建国218周年。町ではパレードがあった。その中で、「人種差別反対」の旗を掲げるアボリジニの人々が私の目を奪った。多民族国家、世界中からの難民を受け入れている寛容な国。しかし、それは一部分のイメージ。オーストラリアの歴史を語るとき、忘れてはならないのが先住民族(アボリジニとトレス海峡の民族)の存在である。
Australian Dayは先住民族にとって侵略開始の日。今のオーストラリアの繁栄、多民族国家の裏には、白人から抑圧され続けてきた先住民族の存在がある。
悲しいことに、現実はそのことを忘れてしまうのに十分なくらい、白豪主義の名残がある。ブリスベンでは、先住民族の人達が日常社会に混じっている光景は見られない。大学のキャンパスで見かけることもない。もちろん、大学の教授もほぼ白人。
アボリジニのアート、民芸品、音楽などでは、先住民族の存在は濃い。しかし、近場のカフェで、図書館で、クラスメイトに、先住民族の人々が溶け込む日はやって来るのだろうか・・・とYothuYindi(アボリジニ出身の音楽バンド)の歌を聞きながら、アボリジニの歴史を思うのだった。
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ムンバイーVSボンベイ
旧称プリンス・オブ・
ウェールズ博物館 |
豊山亜希
インド
ムンバイー
(旧名ボンベイ) |
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我がホストファーザーは、ムンバイーのことを今でもボンベイと呼ぶ。ムンバイーでは都市名そのものと同じく、道路、駅、博物館など主要施設には全て正式名称と通称(旧称)がある。例えばオートリキシャー(3輪バイクのタクシー)に行き先を告げるとき、正式名称の「チャトラパティ・シヴァージー・マハーラージ・ヴァーストゥ・サングラハールヤ」よりも、旧称の「プリンス・オブ・ウェールズ・ミュージアム」がはるかに通りがよい。
この極めて長ったらしく、市民に全く浸透していない正式名称の数々は、90年代に台頭したヒンドゥー原理主義政権の産物である。しかし元はといえば、英植民政府が都市を建設した当初に名付けた英語名(旧称)が正式名称だったはずで、現地語の後付けには外来語を全否定するような無理やり感が漂う。さすがに都市名はムンバイーが本来のものなので、ボンベイと呼ぶ人は少数派になったが、英統治が残していった遺産の多くを、英語名の「正式名称」で親しみを込めて呼ぶムンバイカルは今でも多い。そんな彼らの歴史観や、政治的意図をせせら笑う逞しさのようなものをそこここで感じる、ムンバイーの地理事情である。
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陽気さの裏側
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首都アクラの西、トロトロと呼ばれる乗合バスに乗ること約3時間、ギニア湾岸の町ケープコーストに到着する。ここにあるのは世界遺産の「ケープコースト城塞」。
15世紀頃にこの辺りは金や象牙を西欧へ輸出する港であったことからポルトガル人が「ゴールドコースト」と名付けた。ところが、その後コロンブスのアメリカ大陸発見によって、新大陸開拓のための労働力が必要になり、輸出するものは「奴隷」へと変わっていった。16〜19世紀の間に約2000万人が南北アメリカ大陸に運ばれたという。この城塞には、見晴らしの良い白人用の部屋と、その下にわずかな光しか届かない奴隷を詰め込む為の洞窟のような部屋がいくつもある。いずれも一歩足を踏み入れるとその異様な雰囲気に圧倒され、真っ黒な壁に手を置くと過去の奴隷の悲痛な叫び声を心で感じることが出来る。
どのような思いで彼らは虐げられてきたのだろう。大学の演劇学部は毎年「Slave(奴隷)」という芝居を公演することで現代の学生に「自由とは何か」ということを問いかけ続けている。普段は悲愴さを全く表に出さない陽気なガーナ人達の影にこのような歴史があったことを思い返した時、私は苦難を乗り切った強い民族であることの誇りを感じられずにはいられない。
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Moment when you feel the history
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Coming from a country that has very little in the way of 歴史, オーストラリア, my
sense that I am in the midst of items, architecture, clothing, traditions
and especially attitudes with historical significance is very easily triggered.
One of the things I love about 日本 is the knowledge that almost everywhere
has a rich history stretching back at least a few thousand years. Not only
that, but according to some travel diaries I have read of Portuguese explorers
in the 16th century, not all that much has changed in the past few hundred
years.
Of course, fashion has changed - the blackening of women's teeth and the
preference of small eyes over large are long forgotten trends - but when
I observe the way Japanese people behave in day-to-day life, I cannot help
but see it as a culmination of a long and interesting history, as opposed
to Australia, whose cultural origins are uninteresting and of recent advent.
From the strange customs I observed while teaching at junior high-school,
to the arrays of quaint brothels in the red-light district of 飛田新地, at
times in 日本, one can almost forget the existence of the rest of the world
and imagine themselves in an idealized past.
The various throwbacks to the past never fail to surprise and delight;
for instance, I went to a public pool the other day, and they forced hundreds
of children out of the water every hour, on the hour, for a brief spell
of ラジオ体操. I'm not quite sure if that's something historical, but it definitely
was bizarre!
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牧尾晴喜 harukimakio*aol.com
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