野村雅夫 フィルム探偵の捜査手帳イメージ化する統帥 ~愛の勝利を ムッソリーニを愛した女~ |
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澤村斉美 12の季節のための短歌窓に映るわたしは雨に流れつつビーフカツレツぐつと引き寄す |
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小林哲朗 モトクラ!ディスカバリー四日市の工業地帯 |
(聞き手・進行 牧尾晴喜)
日本人2人目の女性宇宙飛行士としてスペースシャトル・ディスカバリー号に搭乗した宇宙飛行士、山崎直子氏。彼女に、宇宙への想いや宇宙からみた地球、そして宇宙飛行士としての苦労や喜びについてうかがった。
------子どものころのお話からうかがいます。宇宙飛行士につながる「宇宙への興味」という点からみると、小さいときに北海道にお住まいになった影響は大きかったですか?
山崎: 北海道に住んだのは幼稚園の年長から小学校2年生までだったんですが、これはちょうど物心がつき始める時ですよね。そのころにみた、きれいな星空が印象に残っています。見上げると夜空がきれいで、それ以外にも、ときどき小学校で『星を見る会』がありました。グラウンドに望遠鏡を何台かならべて星を見る会で、ボランティアの方々が開催してくれていました。その会に家族で参加したときに、月のクレーターや土星の輪っかをはじめて見て、手をのばせば届きそうな迫力がありました。ああ、すごいなと印象に残って、それから宇宙がだんだん好きになっていきました。
------小さなころは乗り物が苦手だったということですが、いまは、スペースシャトルにも搭乗されていますね(笑)。
山崎: 当時は、小学校の遠足のバスが嫌だったんです。乗り物酔いで、なんだか気持ち悪くなってしまって。中学に入ったときかな、たまたま「この薬が乗り物酔いにきくよ」と両親に言われてのんだんです。後から聞くと単なるビタミン剤なんですけれど(笑)、そのあたりから乗り物酔いはなくなりましたね。
------大学の卒業課題では「宇宙ホテル」を設計されたということですが、どのようなものでしょうか。地上のホテルとは違う点が多そうですが?
山崎: 地上だと土台や基礎からつくっていきますが、宇宙でいきなり大きなものはつくれないので、小さな単位ごとに打ち上げてから、それを宇宙空間で組み立てることになります。わたしの宇宙ホテルでは、ちょうどロケットで運べるくらい、つまり大型バス一台分くらいの、円型のドンガラをどんどん連結して増やしていくというようなイメージです。重力が必要なときは、これをぐるぐる回しながら回転を調節することで、重力をつくれるわけです。窓を地球側につけて、それぞれの部屋となるドンガラから地球を眺めることができる、というコンセプトでした。ただ、設計の過程では、構造強度や熱収支の計算など、地上のホテルでの設計と同じような作業が多いのではないかとおもいます。形としては、宇宙らしいというか、宇宙に特化した形になっています。
------大学のサークル活動では、英語を勉強する「ESS」で英語劇もされていたとか。皆で舞台をつくりあげていったことは、いまのお仕事にも役立っていますか?
山崎: 役立っていると思います。宇宙開発と規模は違うにしても、それぞれのセクションがまとまってひとつのものをつくっていくというプロセスや、現場の熱い雰囲気など、すごく似ていますね。
------大学院生のときに米国のメリーランド州立大学へ留学されましたね。はじめての海外だったということですが、研究以外での収穫も大きかったのではないでしょうか?
山崎: はじめての海外体験で、いきなり一年間の留学でした。中学生のときにアメリカ人の女の子と文通をして、「いつか米国に行きたいな」と思っていました。また、航空宇宙の勉強をしてからは、本場の米国へ留学したいという思いもあって、留学したんです。
あらゆることが新しい体験でした。英語は、学校で習ったことだけでは通用しなかったですね。お店で物を頼んでも、聞き直されたりしてショックでした。また、文化が全然違いました。いろんな考えや人種の方たちが、ごく普通に一緒にいるということが大きかったです。それまでは海外に行ったことがなくて「国際人になりたいな」なんていう憧れもあったんですが、実際に行ってみると、みんなやっぱり日本のことを聞くんですよね。「日本はどういう国なんだ?」「茶道とは?」「歌舞伎とは?」と。恥ずかしながら、そのときはうまく答えられなかったんです。いかに自分の国を知らなかったのか、痛感しました。まず自分の国を理解してこその国際人だなあ、と感じたのが一番大きな収穫だったのかもしれません。
------これまでの宇宙飛行士のためのトレーニングで、極寒でのサバイバルなども体験されていますね。時間や機会があればまたやってみたいですか?
山崎: 極寒でのサバイバルはけっこう大変でした。ですから、またやるとなると、正直、ひるんでしまいます(笑)。いろいろなトレーニングがありますが、人間面白いもので、一度やっておくとやっぱり体が覚えているんですよね。また、「訓練での経験があれば、似たような状況でもきっと何とかできる」と、自信につながっていきます。話をきくだけじゃなくて、実際にやってみるというのも大事だなあとおもいます。
------無重力状態の訓練について。高度10,000m以上の上空でジェット機で急降下して、30秒間の無重力状態をつくっての訓練もあるとのことですね。あっという間だとおもいますが、その30秒間はどのように使いましたか?
山崎: 1回飛ぶと、30秒の無重力状態の訓練を20回くらい繰り返しできるんですね。最初の数回は無重力に体を慣らすことで精一杯なんですけれども、だんだんと、今度は宙返りしようとか、壁をぐるっと走って一周してみようとか、次はこれをやろうと決めてやってましたね。上下が関係なくなり常識がつうじない無重力の世界は、とても面白いものです。急降下で無重力状態をつくったあとは、逆に、高度を上げるので、毎回2Gくらいの加速度がかかるんですよね。その間は床にへばりついていないといけないんです。
------「大気圏に戻ってくると、重力で体を動かすのが億劫な感じになった」そうですが、そのような感覚はずっと覚えていますか?
山崎: 「重力の感覚」というのは残りますね。はっきりと。なんていうんでしょうか、手をあげるのも、重くなっていく感じでした。普通の1Gの重力でも。びっくりしました。
------宇宙飛行士個人としてのつらさや喜びについてうかがいます。ガガーリンの「人類初の宇宙飛行」(1961年)から50年、チャレンジャー号やコロンビア号での苦難も乗り越えて、宇宙開発はすすんできました。壮大なプロジェクトですが、一方で、そのプロジェクトを動かすのは個々の人です。山崎さんの場合には、宇宙飛行士の候補者に選ばれてから実際の搭乗まで、約10年という長い時間がありました。
山崎: いつ宇宙に行くかというのは分からないんですよね、本当に。だから、訓練をはじめるときは数年後くらいを目安に訓練するんですけれども、途中でひとたび事故が発生したりすると、いっきに数年も間が空いてしまいます。ゴールがここにあるかなと想像しながら、でも霧でなにも見えないような感覚です。ゴールが分かっていればいろいろと調整しやすいんですけれども、そうではありません。常に「いつでもいける状態」にしておく、そのために走り続ける、というのはけっこう大変でした。ほかのいろんな分野でもそうですけれども、宇宙開発という大きなシステムでたくさんの人がかかわっていると、個人の都合というのがなかなかきかないです。国家プロジェクトですしね。そういう意味では、家族やまわりの人が大変だったことは多いとおもいます。「一週間後にアメリカに」「ロシアに」と言われれば行きますし、3か月後にどこにいるかがわからないような生活をずっとしていました。本人は好きでやっているからいいんですけれども(笑)、家族としては不安な生活だったとおもいますね。
逆に、一度宇宙ミッションにアサイン(任命)されると忙しくはなりますけれども、腰を据えて訓練できるという意味ではやりやすいです。
------宇宙から帰還されて、1年と少しですね。たとえば海外から日本に帰ってくると、久しぶりの日本になじめないという意味で「リバース(逆)・カルチャーショック」というものがあります。宇宙からの帰還後にそういうことはありましたか?
山崎: わたしの場合には、宇宙での滞在期間は2週間なので、行っていた期間としてはそれほど長くはないです。ちょっと旅行に行って戻ってきた、という感じです。だから、知らない間に、日常の時間が過ぎてしまっていたということはありません。それでも、同じ景色を見る目や感覚が変わりました。今までなにげなく生活していたけれど、こうやって一日一日生活しているのが非常に貴重な、奇跡的なことなんだと思えました。
よく宇宙から戻ってきたひとが、つい無重力状態の感覚でコップから手を放して落っことしてしまったり、ベッドから落ちたりという話を聞いていましたが、私は案外、宇宙に行った時も地球に戻ったときもぱっと慣れました。それはそれで、逆に、すこしさみしいんですけれど。
------国内外を行き来する生活をされていますが、関西方面はどうですか?
山崎: 住んだことはないんですが、大学のときに大阪を皆でまわったんです。友達の家が大阪にあってそこに立ち寄って泊めてもらったり、そのまま九州まで行ったりしました。夏だったから桜などはなかったんですが、大阪城のあたりも好きですし、あと、通天閣のあたりがわたしは好きですね。雑多な感じの勢いがあって。
京都にも行きました。ほかの街でもそうですが、見足りないですよね、何度行っても。
-------宇宙でのモーニングコールとして、ご家族が『瑠璃色の地球』を選ばれていましたね。もし、そのほかにも山崎さんにとって宇宙への想いをかきたてる曲、あるいは宇宙飛行の前後によく聴いていた曲があれば教えてください。
山崎: 『瑠璃色の地球』はどちらかというとしっとりとした曲で、宇宙で聴いたらいいかなと思いました。ほかにもいろいろと聴いていましたが、昔から『銀河鉄道999』のテイクオフの曲『THE GALAXY EXPRESS 999』は大好きですし、『サザンオールスターズ』の『希望の轍』など、聴いていましたね。洋楽の定番ではビートルズや、映画の音楽なんかも元気がでます。『エアロスミス』の『I DON'T WANT TO MISS A THING』(映画『アルマゲドン』主題歌)や『E.T.』の曲も、宇宙という感じですね。
------宇宙関連の映画で、お好きなもの、影響を受けた作品があれば教えてください。
山崎: 小さいときは『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』で宇宙へのイメージがどんどん広がっていったんですけれども、中学校・高校くらいでは、『E.T.』が好きでした。いま観てもすごいなと思います。ほかでは『2001年宇宙の旅』も、人間が宇宙にどう進出していくのかという、非常に奥が深い話ですね。影響をうけましたし、考えさせられます。あと、実は、大学時代には『新世紀エヴァンゲリオン』なんかも観ていて、これは宇宙とはちょっと違いますが、機械系という意味で大好きです。こちらも深い話ですね。
------宇宙開発分野や『宇宙航空研究開発機構(JAXA)』について。「宇宙開発」のような言葉だけを聞くと遠い世界のように感じてしまいますが、実際にはその研究成果は、地理・気象などの観測だけでなく、たとえば快適な睡眠や食品の分野など、わたしたちの日常生活にもひろく還元されています。また、今年3月の東日本大震災では、被災地復興のための支援をおこなっておられますね。
山崎: 直接的な支援としては、人工衛星からの緊急の地形観測で災害地域の変化を調べたり、人工衛星の通信回線を利用して岩手県や宮城県の避難所などにインターネットに接続できる環境を提供したりしてきました。また、わたしがさせていただく講演についても、極力、被災地のほうに行きたいと考えています。復興まで時間がかかりますし、何ができるかを考えていきたいですね。
------今後のビジョンを教えてください。
山崎: できればまた宇宙に戻りたいですね。そして、たくさんの人が宇宙に行ける時代になってほしいなと思います。いまは宇宙飛行士の数は限られてしまっていますが、だんだんと宇宙旅行、宇宙観光、それこそ宇宙ホテルといったような、そういう時代になってくるとおもいます。たくさんの人が行けば、当然、そこには新しい宇宙からの文化のようなものもできてくるのかもしれません。今までの訓練や宇宙での経験を活かして、より多くの人が宇宙にアクセスできるようになるための活動をしていきたいですね。
個人的には、地球上でも、もっといろいろなところに行ってみたいなと思いますね。宇宙からみた地球には何とも言えない美しさがあるんですけれども、そうやって実際に宇宙からみたアマゾンの森やナスカ、そしていまは情勢が緊迫していますが中東の砂漠のあたりなど。いろいろと自分の足でもまわってみたいな、と感じています。
2011年5月10日 東京にて
大学の卒業課題「宇宙ホテル」の設計図 画像提供:山崎直子 |
米国メイン州海軍施設での陸上サバイバル訓練(2004年8月) 写真提供:NASA/ 宇宙航空研究開発機構(JAXA) |
「きぼう」でテレビ会議をするSTS-131クルー(飛行7日目) 写真提供:NASA/ 宇宙航空研究開発機構(JAXA) |
レオナルド内にて(飛行11日目) 写真提供:NASA/ 宇宙航空研究開発機構(JAXA) |
「きぼう」にてSTS-131、第23次長期滞在両クルーの集合写真(飛行10日目) 写真提供:NASA/ 宇宙航空研究開発機構(JAXA) |
写真提供:宇宙航空研究開発機構(JAXA) 山崎直子(やまざき なおこ) 1970年、千葉県生まれ。日本人2人目の女性宇宙飛行士。東京大学大学院修士課程を修了後、当時の宇宙開発事業団、現・宇宙航空研究開発機構(JAXA)に勤務。1999年2月に宇宙飛行士候補者に選ばれ、2001年9月に宇宙飛行士に認定。2010年4月、スペースシャトル「ディスカバリー号」によるSTS-131(19A)ミッションのミッションスペシャリスト(MS)として、宇宙へ。 |
やあ、私だ。新作イタリア映画が相次いで公開となる今年、最も注目しておくべきは、珍しくきっぱり言うが、ベロッキオだ。今やイタリア映画が誇る数少ない巨匠のひとりだが、60年代デビュー当時の輝きと意欲を再び取り戻し、ここ10年ほどは、歴史のマクロとミクロを編み上げるスタイルに磨きをかけて内外で評判を呼んでいる。
ムッソリーニが世紀の誘惑者であったことは知られている(何しろ国民丸ごと「その気」にさせたのだ)。しかし、まさかここまで監督の創意を刺激する女性が実在したとは…。
件の女、イーダにムッソリーニが出会うのは、彼がまだ急進的な雑誌の編集者だった頃。反君主制かつ反カトリックの社会主義者として燃えるような情熱をたぎらせていた彼に心酔した彼女は、将来のファシスト党の機関紙創刊のため、私財はおろか人生そのもの、文字通り身も心も捧げる。しかし、政治の階段を駆け上る彼に裏切られ、身ごもった息子とも引き離され、放り込まれた精神病院で死に絶える。「愛の勝利」を求めて敗北するとはいえ、最後まで時代にも体制にも順応しなかった彼女こそが勝利者だったのかもと感じさせる熱を帯びた演技と、その壮絶な生き様を余すことなく伝える演出には感嘆せざるをえない。
唸るのが、虚実の映像の使い分けだ。この映画には映画(当時のニュースなど)が頻繁に登場する。当初は俳優によって演じられていたムッソリーニは、徐々に銀幕内の本人(のイメージ)へと移行する(一方で、俳優は息子を演じる)。ひとりの社会運動家があれよあれよとイメージ化する様子の、見事な「映像化」だ。映画そのものが「隠れ主人公」なわけだが、実際のところ、統帥は映画を「最も強力な武器」と位置づけていたことを考慮に入れると、一層奥深く感じられるだろう。
ベロッキオとは、「優れた眼」という意味。その名を体現する巨匠の今後にも眼が離せないが、まずはこの渾身の傑作にしっかりと眼を凝らしたい。
(c) 2009 Rai Cinema-Offside-Celluloid Dreams マルコ・ベロッキオ(Marco Bellocchio)監督 『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』 5月28日からシネマート新宿 6月11日からシネマート心斎橋 ほか全国順次ロードショー |
野村雅夫(のむら・まさお) ラジオDJ。翻訳家 FM802でNIGHT RAMBLER MONDAY(毎週月曜日25-28時)を担当。イタリア文化紹介をメーンにした企画集団「大阪ドーナッツクラブ」代表を務め、小説や映画字幕の翻訳も手がける。 |
友人や同僚とする食事もわるくはない。が、食欲にまっすぐ、素直に向き合うことのできる「ひとりメシ」の幸せこそ捨てがたい。体が喜ぶ感触、食べたものがそのまま体力になり、脳に活力を与えるあの感じ。「モノを食べる時はね 誰にも邪魔されず 自由で なんというか 救われてなきゃあダメなんだ 独りで静かで豊かで……」(漫画『孤独のグルメ』原作久住昌之、作画谷口ジロー)。名言である。
仕事中の休憩のとき、職場の外に食べに出ることがある。その後の仕事の量と質を考慮し、自分の内なる食欲に耳を傾け、祈るような思いでメニューを決め、食事にとりかかる。辺りには、同じくひとりメシと思われる人の姿がちらほらとある。ひとりひとり、窓に映る自分を相手に、ひとときの自由をかみしめているのだ。
澤村斉美(さわむら・まさみ) 歌人。 1979年生まれ。京都を拠点に短歌を見つめる。「塔」短歌会所属。 2006年第52回角川短歌賞受賞。08年第1歌集『夏鴉』上梓。 |
工場鑑賞好きの間で特に人気が高いのが三重県四日市市の工場群だ。写真は「うみてらす14」という展望スペースから撮ったもので、どこまでも続く工場をじっくり鑑賞できる。四日市市臨海部には外壁があまり高くない巨大工場が点在しており、実際に現場まで足を運ぶと間近で迫力満点のプラントや機械を鑑賞できる。夜間は表情を一変させきらびやかに照明が灯る。石油精製工場では不要なガスを燃やす炎の揺らめきが見られ印象的だ。
小林哲朗(こばやし・てつろう) 写真家。保育士 保育士をしながら写真家としても活動。廃墟、工場、地下、巨大建造物など身近に潜む異空間を主に撮影。廃墟ディスカバリー 他3 冊の写真集を出版。 |