ウーノ・ドゥーエ・トレー! ~ドーナッツの輪をひろげて~

大阪ドーナッツクラブを結成したのは、イタリア語による芝居の上演でつきあいの長かった有北クルーラーと千里中央のドーナッツ屋で夢を語ったのが発端である。巷ではグローバル化だなんだと文化の均し作業で忙しいようだが、イタリアはまだまだ捨てたもんじゃないはずだ。ジャンル横断型の創作活動にいそしむ芸術家が多い彼の地である。知れば知るほど、そこらに出回っている情報では飽き足らなくなってくる。もっと刺激的なお宝があるはずだ、間違いない。いっちょう掘り当ててやるべか。やんべよ。
活動の方針は自然と決まった。まずは自分たちが知りたい、味わいたい。さらには、その中から選りすぐりのものを日本で紹介したい。我々の原風景は仲間同士の語り合いの場である。自分の感じたことをそこでいかに生き生きと再現するか。聞き手に興味を持たせるか。自分が相手を魅了することで、話題は初めて他の人にも飛び火する。一人称から二人称を経て、三人称へと輪が広がる構図だ。すべてはそこから始まってきたし、その素朴なやり口は今後も変えるつもりはない。手玉のストックは列をなして出番を待っている。電網を飛び出す我々ドーナッツの動向にどうか注目願いたい。

舞台は大空だ。メンバーは飛行経路を思い描いている

野村雅夫
イタリアの文化紹介
大阪/ローマ

大阪ドーナッツクラブ

おめでとう ありがとう またあした

Rcafeは3月で5周年を迎えることができました。迎えるにあたり、この5年間を思い起こしてみると、すべての毎日の積み重ねが今に繋がっていると感じずにはいられません。
卒業制作で空き家を改装したことに始まり、一緒に改装した二人に出会えたこと、建築を学べる学部に入ったこと、小中高時代、父母の元にうまれたこと、さかのぼればきりがないくらい、その都度選択し進んできた結果、今Rにいる。その選択基準はきっとその時の私の中にうまれた感情だろう。特に没頭できる趣味を持ってなかった大学時代に「私はお店の内装をみるのが好きだ」と気付いて動いたことや、やりたい仕事がわからなかった就職活動時代に「一生のうちできるだけ多くの人と出会いたい関わりたい」この気持ちを真ん中においたこと、そんな感じで今の道が少しずつつくられたのだろう。
10年後、20年後なんてわからないが、今日の選択で明日がうまれ続け、道ができていく。だから私はすべてをひっくるめ、ただただ「またあした」と想う。どんな道だろうとそれが私の生きた軌跡なのやろう。

藤井 有美
カフェ
大阪・中崎町

R cafe

みえないけどそこにあるもの

大学は芸術系の大学に行ったんですけど、絵が描けるわけでもない、音楽も舞台も自分がするほどには興味が無い、どうして入学できたんだって話ですが、大学で覚えたことは「ものを見ること」。僕が自分で理解した「ものを見る」は「もの」に関わった「ひと」の気持ちを知るということでした。
本は、人に作られて、人の手に渡って、そして人の手から離れて、古本になる。そしてその古本を手にする人がいる。「ひと」の気持ちをのせて、「ひと」の気持ちの移り変わりを経て、流れて「古本」になって、そして「古本」として、また人に帰っていく。そんな流れの間に立つというのは、「ひと」を知るということにもってこいの場所でした。気持ちは見えないですが、古本が流れる道には「ひと」の気持ちが積もっているんです。誰かに手放された本でも、流れる道に本を置いてあげると、本はキチンと生き返って流れていく。それは何でも同じだと思います。
浮世離れした生活のようですが、「ひと」の気持ちの流れるそばに居たいと思っていますし、メガネヤというのはずっとその流れの近くにあるようにしたいと思っています。

市川ヨウヘイ
古本屋
大阪・京橋

古本屋メガネヤ(地図)

望郷

きっかけは、タイ国境にあるビルマ難民キャンプを支援する団体への参加だった。週末の資金集めのためのバザーに参加したりするうちに、もっと現地のことが知りたいと思うようになり、難民キャンプを訪れた。拍子抜けするほど明るく暮らす難民の人達だけれど、二か月間キャンプで生活を共にする中で、日本で生まれた私には想像もできない過酷な体験の数々を聞いた。知識としては知っていたけれど、現実に目の前にいる人から話を聞く衝撃は数倍大きかった。
何か自分にできることをしたいと思っても、専門のスキルも何もない私には現場でできることなど何もなかった。
一念発起して仕事を辞め、イギリスで修士をとった。現在はカンボジアにおり、難民支援とは異なる分野で国際協力をしているけれど、いつかあの現場に戻りたいと思っている。
第二次世界大戦中に日本兵から教わったという「証城寺の狸ばやし」を今でも歌えるおばあさんにキャンプで会った。「死ぬときは絶対、ビルマに戻って死にたい」と口癖のように言っていた。そのおばあさんも、私がイギリス留学中の2005年に亡くなった。今もまだビルマへ戻れずに、タイ-ビルマ国境で眠っている。

15年以上続く難民生活で、家はすでに高床式の民家に。生活環境は改善されても、郷愁の思いは募る

西口 三千恵
国際協力
徳島/カンボジア

NPO法人TICO

伝え合うこと

音だけの世界って何かすごい。そんな単純な感動が私をラジオの世界に向かわせてから、12年間が過ぎた。本格的にラジオを始めたキッカケは、とある特産物の輸入規制緩和で、生まれ育った町が最悪の状態に陥り、多くの人が自ら命を落とした事だった。その事実は、どのメディアでも取り上げられることが無く、「誰も伝えてくれないのだったら、俺が俺の言葉で伝える!」そう決意して始まった。
振り返って見れば、ラジオである必要はなかったのかもしれない。テレビだって、新聞だってある。私は話す事が得意なわけではない。上手くもないと思う。しかしラジオをやめられない理由は、やっぱりラジオが好きだからだろう。様々な人に出会い、誰かが伝えたい想いを受け取り、伝えるべき言葉は日々増えていく。インターネットラジオなら世界中の人にその想いを伝える事ができる。これってすごい事だ。
まもなくコミュニティ放送局での役目を終え、私は故郷へ戻る。途切れがちだったネットラジオをちゃんと更新できる時間と環境も整いそうだ。このコラムを読んで下さる方全員に私の言葉が届く位のラジオを、近い将来実現したいと本気で思う。これからが私の勝負所だ。

中村 謙太郎
インターネットラジオ
大阪・新世界

インターネットラジオ
Good-AIR !

コミュニケーションの問題が永遠のテーマ

現在関わっている翻訳の仕事に就くきっかけを辿ってみると、それは小学生のときに読んだコナン・ドイルの翻訳本かもしれない。それまで楽しく読み進んだシリーズが突然読んでも読んでも頭に入ってこなくなり、自分の読解力を棚に上げて「これはきっと翻訳が良くないんだ」と断定したのが、原書を読みたいと思ったいちばん最初の記憶。その後は紆余曲折した道を進みつつ、最近は「やりたいこと」と「やれること」が一致してきて、どんなに忙しいときもなんだか気持ちいい。これまでも職種は違えどテーマはいつもコミュニケーションに関する問題であり、ものを見る/観る/視る視点だった。これは翻訳や通訳だけではなくて、いろいろな活動に応用できるテーマだと思う。
振り返れば仕事の方向性が固まったのはこのコラムを書き始めてから今日までの間なので、もう最終回というのはとても感慨深い。なのに、その一年間の葛藤が文章に表れてないのはちょっとのんびりしすぎてはいないだろうか…。またいつかどこかでこんな機会にめぐり合えることを願い、コミュニケーション能力やものを見る視点に磨きをかけつつ、今後は表現力も鍛えようと思う。

山本真実
ローカリゼーション
大阪・南森町

クリエーター自主運営
ワークルーム208

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