第11回、11月号の内容は
カフェオーナー、浅海恵美子/白滝素子の「二都物語り」
大阪ドーナッツクラブ代表、野村雅夫の「虚実ないまぜの京都 ~舞妓Haaan!!!~」
建築家、南野優子の「秋の夕暮れ」
豊田高専建築学科助教、加藤悠介の「ワンコミュニティの実践」
4人の執筆者が、それぞれ違った視座から建築周辺の話題を綴るコラム、お楽しみください!
カフェオーナー、美術館のもぎり/お抱え料理人
大阪空堀
Books & Cafe LOW
「いい雰囲気ですね。東京にはこんな感じのお店がなくて。」と、たまに関東からこの界隈を訪れるお客様から、こんな声が聞かれることがあります。東京はもっと洗練されていて・・・?と、ちょっと意地悪な続きの言葉を想像してみるのは、大阪人特有のコンプレックスの表れ。先日、東京滞在の機会に、おしゃれなショップやカフェにリノベーションされた古い民家やマンションが建ち並ぶ目黒川沿いを歩いて、代官山~恵比寿へと足をのばしてみました。本や雑誌で紹介される店が出現するたびに小さな声をあげるなんて、おのぼりさんそのもの。関東のお客様の言葉をそっくりそのままお返ししたい気分に陥ります。
東京人は経過主義で大阪人は結果主義(キャリアやブランドに拘るか否かの違い)、嗜好の違いが人格形成上に差異を生じる(粉もの好きの大阪人は血の気が多い)といった、笑えるけどナルホドと唸らせる比較を、されている方がいらっしゃいました。その血の気の多さが大阪のゴタゴタ感を生み、経過主義が東京のクール感に繋がるというのになんとなく合点がいき、この二都の違いは、その都市を構成する人の違いに他ならないのではないかと、早計にもカテゴライズ。そして、クールな雰囲気と、どのショップでも店員さんがベッタリ寄ってこないのが心地よい、ファッションも多様性がある(超オシャレから酷く地味まで)、即ち人の視線を気にしないでよい・・・まだよくも知らない今日出会ったばかりの町に一目ぼれしてしまった私は、東横線に揺られながら、一つ一つその美点を挙げていました。
著書「モダンシティーふたたび」(LOW収蔵)で、大阪に住まわれたことのない東京人の視点から、大阪を魅力あふれる町として描かれた海野弘さんが、再度の取材で大阪を訪れていらしたことを、留守中貯まった夕刊のコラムで知りました。そうだった、自分が生まれ育った大阪のことすら解っちゃいないのだ。
教訓・・・己を知らずして、他者を語ることなかれ!
(白滝素子)
歴史と伝統を逆手に取った何ともバカらしい演出が文字通り光っている。
大阪ドーナッツクラブ代表、
ラジオDJ
京都、ローマ
大阪ドーナッツクラブ
京都の盆の風物詩、五山の送り火。見物中に人から聞いたところによると、大文字が「犬」になるというハプニングがあったという。わりと最近の話だそうな。大学生のいたずらだったらしい。
そんなエピソードが後か先かは定かではないが、スマッシュヒットも記憶に新しい『舞妓Haaaan!!!』(水田伸生、宮藤官九郎脚本、2005年)の大団円では、意外にも映画初主演だった阿部サダヲ演じる主人公鬼塚公彦が、大の字の右下にスキという形を器用にかたどりながら火を放ち、意中の舞妓に告白をする。もちろん、あえなく逮捕されてしまうのだが…。
そもそも宮藤の脚本は、時に漫画的とも言えるような展開を見せることが多く、この『舞妓~』も例外ではない。真骨頂は京都のど真ん中にCGで突如出現するドーム型の野球場だろう。鬼塚が勤める即席ラーメン会社を巻き込んで結成したプロ野球チーム「京都オイデヤース」の本拠地である。この荒唐無稽さはどうだろう。雅を感じる古都の風情をあっけらかんと台無しにしてしまう演出。リアリティーなぞはなから無視しているのが潔い。
京都を舞台に据えた途端、とかく映画は風情や現実味を醸そうとしがちな気がするのは私だけだろうか? 日本の心として、古き良き街並みをロケーションに生かしたいという監督の意図が見え隠れする。ところが、文学に目を転じれば、最近では森見登美彦や万城目学のように古都に漂うどこか謎めいた雰囲気に着想を得て、自由奔放なファンタジーをはちきれんばかりに膨らませている若い作家たちがいる。アニメーションだSFXだと言ってはみても、映画は基本的に現実を切り取る形で映像を示していく。だのに、映画的映像はなぜだか私たちの見る夢や幻想に不思議と似通う。『舞妓~』で鬼塚が舞妓とのめくるめく野球拳を夢想して通い詰める祇園の花街の名称が「夢川町」という架空のものになっていたのは、宮藤の映画に対する夢が具現化してのことだったのかもしれない。
赤く染まった秋の夕暮れ
建築家(設計事務所勤務)
大阪
ちょっとした用事のため、普段は行くことのないエリアを訪れた。用事を済ませ、最寄りの駅まで15分間程歩いて向かうことにした。そこは主要な幹線道路であるらしく、ひっきりなしに車が通過している。大量の車が通行しているため騒音や排気ガスもひどく感じられる。そもそも車のために計画された道路であるらしく、歩行者のためのスペースは人が最低限歩くことができる程度にしか設計されていない。歩道の幅は人と人がすれ違うことはできるが、車道を走るには危険すぎると思われる自転車が通ればすれ違うのにもやっとである。時折植えられた街路樹のところでは、歩行者と歩行者がすれ違うこともままならない。車がスムースに通過している一方で、歩行者用の道は小さく追いやられ、とても過酷な環境であるといえる。
そんなことを考えながら目的地まで向かっていたら、幹線道路の信号が赤になり走っている車両が次々とブレーキランプを光らせながら停止した。一面に赤いライトが灯った。随分赤い景色だなあと眺めていたら、いつの間にか夕暮れ時になっていたらしく、背景である空も夕焼け色になっていた。もし歩いている歩道の幅が広く連続した街路樹が整備されているようなところだったとしたら、気が付かなかったかもしれないこの赤の景色の発見にちょっと気を良くしていたら、目の前の街路樹の葉が紅葉しているのが目に入った。しばらくの間、せわしない歩道を歩きながら秋の夕暮れの風景を眺めていた。
こんな過酷な環境だと思われるところにも、毎日夕暮れ時がきて辺りを赤く染めていく。そして同様に毎年秋がきて街路樹の葉を赤く染めていく。秋の夕暮れの風景を眺めながらそんな思いを巡らせてみる。
簡単な建具を制作するにも様々な知識が必要となる
豊田高専建築学科助教
愛知県豊田市
加藤(悠)研究室
豊田工業高等専門学校 建築学科
正直に話そう。私は建築学科で教えていながら、どのようなディテールの積み重ねで建物ができているかをよくわかってないみたいだ。もちろん建築家のディテール集を楽しむことも、豊田市美術館のガラスの納まりに感嘆することも、矩計図の指導だってまあできる。しかし、いざ何かをつくり、そのディテールを考える段になると、はたと手が止まる。部材を組み立てるのに、どのディテールを使えばいいのか王道がわからない。そう、体系化した知識がないのでアレンジが効かないのだ。
これまで建物を評価する研究や設計コンペのなかで建築を考え、実際の建物が立ち上がるプロセスには目を向けてこなかったツケだと思う。それの機会が少なかったとしても、情けないことだ。
先月話題にした、パブリカという地域の居場所づくりへの参加でこの後悔はより強くなった。先日、そのファサードをゼミ生とつくらせてもらった。風と寒さを防ぐこと、取り外せること、本格的な工事までの仮設であることを条件とした単純な建具の制作である。しかし、つくりだすと歪みが発生するなど問題が次から次へと生まれる。そして立ちすくむ。そんなときは、近くに住む、家具の製作やDIYに詳しい人から手助けしていただく。このことは、私たちの知識不足を露呈したものに違いないが、一方で地域の人を巻き込んで協働で場所をつくりあげていく機会になりえないだろうか。
ワンコミュニティという言葉がある。設計者が単に上からの専門的な目線で計画するのではなく、設計者もそこを使う人たちのコミュニティのなかに入り当事者として関わることを目指す、新しい計画理念のひとつである。パブリカはこのワンコミュニティの考えが実践される場にしたいと思う。加えて、ワンコミュニティは立場の違う人が集まり、様々な知識を伝え合う学びの場にもなるだろう。そういえば、私もパブリカでは研究室よりも多く脳みそを使っている気がする。これまでの勉強不足の穴埋めかもしれないけど。
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