第8回、8月号の内容は
大阪ドーナッツクラブ代表、野村雅夫の「京のできごと ~鴨川デルタ その1~」
建築家、南野優子の「リネンのシーツ 」
豊田高専建築学科助教、加藤悠介の「夏休みは知らない街へ」
カフェオーナー、浅海恵美子/白滝素子の「大阪レトロスペクティブ」
4人の執筆者が、それぞれ違った視座から建築周辺の話題を綴るコラム、お楽しみください!
加茂大橋から北山を仰げば、デルタがくっきり姿を現す。
大阪ドーナッツクラブ代表、
ラジオDJ
京都、ローマ
大阪ドーナッツクラブ
観測史上最も遅い梅雨明けが発表され、やっとこさ夏本番だ。このコラムも折り返しを少し過ぎたところで、ミニシアター・名画座といった施設から視点をグッと引いて、京都を舞台にする比較的最近のフィルムのロケ地を訪ね、この映画都市の今の魅力を引き続き考えてみることにする。
文明の発達が河川と共にあったのは言うまでもないことで、世界の大都市には必ずと言っていいほど、名の知れた川が走っている。京都は鴨川。なかでも、河川法上の鴨川の始点であり、高野川と加茂川が交わる下賀茂神社界隈、「鴨川デルタ」と呼ばれるエリアが近頃の監督のお気に召すらしい。
たとえば行定勲の『今日のできごと a day on the planet』(2003年)。京都の大学院に進学する正道の引越祝いに集った若者たちの飲み会を軸に、彼らとその周辺の人々のありふれた一日のできごとが奇妙に交錯する様子が断片的に描かれる。「今日が明日になった頃」、叡山電鉄出町柳駅近くのコンビニに自転車で買い出しに行った帰り、デルタの突端、高野川にかかる橋を渡ったところで、正道は当て逃げの被害に遭う。ただ、突如挿入される劇的なできごとも、大阪に住む彼女からの電話であっけなく日常性に回帰してしまうのが面白い。缶麦酒を手に欄干にもたれて、このままボートにでも乗って行けば君の家に着くなんて調子で展開されるうだ話が、青年たちの日常をつなぐ物語構造を強化する役割を果たしていて、関西の地理的なつながりを観客に想起させるこのシーンは、まさにロケーションの妙だと言えそうだ。
京都は昔から学生の町として知られるが、このデルタ付近は大学も点在し、その雰囲気がより濃厚だ。河川敷には昼夜と国籍を問わず若人の姿が絶えず、数多の現実の群像劇「京のできごと」の舞台となってきた。若者特有のあり余るエネルギーがデルタで交錯してせめぎ合い、飛沫を上げながら時に沸点に達して爆発する。来月は、その端的な例となる作品を取り上げる。
リネンのシーツ
建築家(設計事務所勤務)
大阪
最近、ベットのシーツをリネン(亜麻の繊維を原料とした織物)のものにかえた。寝苦しい夏の夜にさっくりさらさらとした素材感がなんとも気持ちいい。リネンは見た目や肌触りと行った風合いだけでなく、機能的にも優れものだ。吸水性がよいのに、洗濯するとあっというまに乾いてしまう。そして使う程に柔らかくなり肌になじんでいく。肌に直接触れるシーツの感触がここまで喜びをもたらすものなのかと正直驚いた。シーツは衣食住でいったら「住」と「衣」との中間的な存在といったらいいのだろうか。家の一部として存在するものでありながら、素肌にまとうものでもある。普段は強く意識しない「触感」を寝ながらも楽しむことができる、またとないアイテムだ。
建築の設計の中でも、一番気を使うのは人が直接触れる部分である。例えば、床のフローリング。素足で歩いても、寝転がっても気持ちがいい。木は素材の持つ独特のあたたかみと丈夫さを兼ね備えた優れた素材だ。使い込まれて表面が多少変色してもそれが味わいとなっていくし、ワックスで磨きこまれたものも美しい。無垢材であれば、傷ができても表面を削ることによって長い間使うことができる。また、建具に取り付く取手などは、建具のアクセサリー的な存在でありながらも、毎日手に触れる実用的なものである。何気なくするドアの開け閉めも、気に入った素材とデザインでできたものであれば、楽しい動作の一つにもなりうる。
素材の感触を素肌で楽しみ、時々手を入れながら、長い間大切に使う。このような素材でできたものに囲まれて生活することの喜びは大きい。洗いたてのリネンに包まれながら、日常の生活の喜びはこんなところにもあるんだなあと考えてみた。
アーケードに横たわった鯉は何を語るか
豊田高専建築学科助教
愛知県豊田市
加藤(悠)研究室
豊田工業高等専門学校 建築学科
夏休みに入った。高専の夏休みは7月中旬から1ヶ月半ほど続く。学校の束縛から一瞬逃れた学生たちは、若者特権の自由を満喫し、昼夜逆転の非生産的生活を送り、堕落に気付き、自己嫌悪し、自分を変えなくては、と志も新たに9月からの授業に励むという、ある意味、意義ある夏休みを過ごしていることだろう。しかし、このような一昔前の夏休みを送っている学生はあまり多くないようだ。部活動に積極的に参加したり、コンペに取り組んだりする学生を学校でよく見かける。ちゃんとした生活を送っている。すごいじゃないか。
一方で、教員の方は堕落した夏休みを送っているのではとの疑念を抱かれるかもしれない。これは否定しなければならない。学校にいるときは、原稿を書いたり、学会発表や授業の準備をしているし、外にもよく出かけ、校外実習で学生がお世話になっているところに挨拶に伺ったり、豊田高専のアピールのため中学校を訪問したりと結構忙しいのだ。
ただ、今は校務によることが多いのだが、知らない街に行くことは小さな頃からの夏休みの大きな楽しみである。先日も郊外実習先への巡回時に、ある商店街を見つけた。そこは七夕まつりで有名で、まつりは終わっていたが、飾りがまだアーケードから吊り下がっていた。そこに不思議な光景。鯉の飾りが横ばいで吊られているのだ。なぜだろう。まつりが終わると横ばいにするのがこの地域の習わしなのだろうか。例えば、ひな祭りの後にお雛様を後ろ向きにするような。だとしたら、いつから始まったのだろうか。どんどん話は勝手に進む(本当のところは邪魔という単純な理由かもしれない)。知らない街と空想は相性がよい。そして、建築の計画や設計には、そこを使う人の行動や考えを空想する力がかなり重要ではないかと私は思う。
学生にも、学校に来るだけではなく、夏休みには知らない街でたくさんのことに出会ってほしい。空想がきっと楽しくなるから。
カフェオーナー、美術館のもぎり/お抱え料理人
大阪空堀
Books & Cafe LOW
ちょうど3年前の8月。ブックカフェにぴったりの物件があるというので初めて空堀を訪れました。その頃、このあたりは古い家を利用した店が出来たりしてレトロで面白いと話題になりつつあり、事実、実際目にした空堀は、都心にありながらそこだけぽっかりと違う時が流れているような町でした。
まず私たちは空堀商店街を歩いたのですが、道行く人は品良く落ち着いていて、子供の頃近所にいた古き良き時代の大阪の人を見るようでした。商店街も活気があり、どこもこざっぱりと清潔で気持ちがいい店ばかり。いまでは食生活が変わって少なくなるいっぽうの野菜屋さん、魚屋さん、豆腐屋さん、和菓子屋さんといったお店が、ここではちゃんと機能している様子です。それぞれのお店の個性で丁寧に並べられた野菜や魚、買い物ついでお店の人と世間話を楽しむ近所のお客さん、昔見たような光景が今も繰り返されている不思議なところでした。
また、商店街から横道に行くと戦災を免れた木造の家が所々に残り、路地には小さな家が軒を連ねてあちこちにお稲荷さんやお地蔵さんが祭られています。どの家も外回りはきれいに掃除され、近所の人に株分けしてもらった植物を大切に育てた鉢植えが並んでいて、なんでも買って済ます現代の風潮とは一線を画した、生活に対する意識の高さを感じさせられます。ここでは昭和30年代に当たり前だった地に足のついた暮らし方が今も営まれているのでした。
結局、私たちは空堀をすっかり気に入ってこの町でブックカフェをすることになりましたが、3年たった今も空堀は変わることなく毎日をきちんと暮らす人たちの住む町でいてくれます。世の中が便利になって手間を掛けるということが少なくなった今、その反動で昔の良さが見直されています。
空堀はそういう人に是非お勧めしたい、いい意味で昭和の暮らしが息づく町なのです。
(浅海恵美子)
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