第6回、10月号の内容は
絵描き、鈴木啓文の「個々がつながる蔵」
インテリアコーディネーター、ユイコの「予約と持ち物」
大阪ドーナッツクラブ代表、野村雅夫の「本質は細部に宿る。そして、恐怖もまた細部に宿る。」
美術家・現在上海にて新入社員、安福真紀子の「抵抗する人々」
4人の執筆者が、それぞれ違った視座から建築周辺の話題を綴るコラム、お楽しみください!
今回は室内からお送りする。広大な風景・間近な建物と同様、室内も、あれもこれも入れたいと思うと空間が歪みだす。別にビールが入っているからではない(滝汗)
手前と奥の部屋は屋号も入口も番地も異なるが、土間でつながったひとつの店。外から二階建てにみえる半分は吹き抜けで、左手前の部屋には天窓と庭が、右奥の部屋にはステージがある。
戦禍を免れ残りなお活用されている建物が、いま不可避ながら免れているのは再開発だろう。ここも高層ビルや高速の高架、鉄道延伸工事に挟まれて奇跡的に、川が近く水運に都合よかったような時代の蔵が並ぶ一角。
古い看板に「雲州堂倉庫」とあるが、実際雲州堂とゆうそろばん会社が、島根から雲州そろばんの名実を冠して百年前ここにやってきた。いまも大阪に存在する。
看板までそのままに雲州堂と名乗り、ステージもある多目的スペースとし、隣接する別のもと洋辛子屋の蔵に厨房が設けられる。厨房に近いがわで、周辺のデザイン会社系が打ち合わせてたり呑んでたり。カップルが夜中にパフェ食べてたり。ステージをみながらごはん、とゆうイベントも。
個人が長屋の一軒を改装するよりはやはり大規模で当然美しい。が、どこか同じ匂いがする。手捻りの器、ここの近所で漬けてはるとゆう旨い漬け物、静かに熱を帯びる音楽家たち、等々分野は様々でもひとりでつくられるものが報われてる場だからか。手作りのそろばんも伝統工芸のうちに入るとゆう。
インテリアコーディネーター
(インテリア関連メーカーショールーム勤務)
大阪
「時間がない。」遅刻の常習犯である私にとって、これは永遠のテーマである。口癖であり、常識でもあった。新居への引越しから1週間。10月、遂に1年振りの職場復帰。自分なりに遅寝、早起きによって活動時間を創り出しているのだが、時間がない。万人に平等に与えられた24時間を、工夫して大切に使わなければと、これまでになく切実に「時は金なり」を実感している。
半年がかりの家造りで、日頃お客様として接してきた「施主」を初体験した。これまでお客様を待ち続けてきたショールームスタッフが、出迎えられる立場になった。不思議な感覚である。どうしても店側の気持ちになってしまい、「困った客」にはなるまい、という心理が働いてしまう。「あとは好みの問題、ということで随分悩む」「夫婦喧嘩を始める」「待てど暮らせどやって来ない」…。そう、予約をしたら時間通りに来て欲しい。早過ぎても、遅過ぎても具合が悪い。ところが、今回施主になってみて分かったこと。「アポなしでも、ちゃんと案内してもらえますよ。」「うちからの紹介と伝えてもらったら、仕様は全部向こうで把握していますから。」と住宅メーカー担当者は、施主に言う。「嘘でしょう」とは、心の中だけにしておいた。キッチン、バス、洗面のショールームをアポなしで訪問。心臓はドキドキだった。仕様書だけはきっちり鞄に忍ばせた。やはり、受付で聞かれた。「仕様書はお持ちでしょうか?」
どんな立場の人も、皆時間は貴重である。新居への引越し前後は、様々な業種の人たちの訪問を受けた。引越屋、新聞屋、電気・ガス…。飛び込み営業だったり、指定した時間より1時間以上早かったり、こちらが思うようにはうまく来てくれないけれど、そこは人間同士。感じの良い人なら許せてしまう。アポなしでもいい、仕様書さえあれば。
イタリアの「自動ドアに注意マーク」もまた怖い。
大阪ドーナッツクラブ代表、
ラジオDJ、大学非常勤講師
大阪、京都、ローマ
大阪ドーナッツクラブ
FM京都αステーション
映画と演劇の双方に関わっていると、両者の空間構成の違いについて考えることがある。演劇の場合、観客はいつも一定の距離をおいて鑑賞するので、クロースアップという効果が期待できない。映画の場合、ショットのサイズは融通無碍に変化する。登場人物の心境やストーリーの変化に寄り添い、セットにもある種の「演技」が求められるのだ。一部屋で展開する物語があるとしよう。演劇だと、いくらその舞台美術を作りこんだとしても、観客の関心はしだいに役者の身体表現に収斂していく。それに対して、映画であれば、必要に応じて室内の構成要素を断片化して再構成し、たとえば床のタイルの複雑な模様や真鍮製のドアノブといったものにさえ、登場人物と同等か、あるいはそれ以上の特権的な地位を与えることができる。優劣の問題ではなく、こうした性格の違いが両者にはあると言えるだろう。映画においては、本質は往々にして細部に宿る。
ディテールの演出に手腕を発揮する映画作家は多くいるが、僕が最近まとめて鑑賞したイタリアン・ホラーの鬼才、ダリオ・アルジェントもそんな人だった。日本で最も有名なのは『サスペリア』(1977年)だろう。普通なら大団円まで秘蔵にしておきたいようなド派手な殺人シーンを、むしろのっけに配置して観客の度肝を抜くこのフィルムは、やはりそのテンポあるオープニングが珠玉の出来栄えだ。嵐の真夜中。ごった返す空港到着口。主人公の少女が足早に建物の外へ。自動ドアが開く瞬間、カメラは高速で横移動する硝子扉上部を大写しにする。正直に告白しよう。僕は開始数分のこの時点で思わず「キャッ!」と甲高い悲鳴を上げた。この監督の手にかかると、自動ドアが開くだけで怖いのだ。彼はこうした細部へ恐怖を丹念に注入しては、それを全編に計算高く散りばめていく。細部が積み上がるほどに僕は縮み上がったことと、映画鑑賞後に悪夢もセットで鑑賞してしまったことは、言うまでもない。
家の近くにまだ真新しい地下鉄の駅がある。その駅前の真っ白な壁にこんな抗議文を見つけた。一度、グレーのペンキで塗り消された跡があり、またその上に殴り書きされている。近くに予定されている新しいビル建設への抗議文だそうだ。中国の人民は体制に対して、無抵抗なのでは、という先入観が吹き飛んだ。また、急ピッチで進む都市計画の遂行には、どこかに犠牲があることを改めて思った。
古い建物の取り壊しと、新しいビルの建設は、ここでは、ごく普通に見られる光景だ。新しいビルが完成した際には、古い建物の住人は、その所有していただけの住居スペースを受け取り、広くなったぶんも割安の値段で手に入れることができるという。ある人々にとっては、新しい設備の住居を破格で獲得できるチャンスである。新しい部屋を人に貸して、自分は、もっと安いところに住むことだってできる。しかし、これを良かったと思う人ばかりではない。工事期間中は、自己負担で、別に住居を探して借りる必要がある。ここ数年、家賃の値上がりの激しい上海で、適当な物件を見つけるのは、至難の技だ。金銭的な余裕がない場合、住み慣れた都心部から離れなければならない。余計な家賃の出費は痛いし、近所付き合いのない土地に暮らすのはいやだという抵抗感もあるだろう。また地上階にて、店を営んでいる場合、仕事自体を失ってしまうことになりかねない。事情は複雑である。
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